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庄内語の不思議

「な」のなな不思議

庄内弁の特徴的な助詞として、「の」「け」などは知られているところであるが、「な」については、いまだ詳しい考察の文献を見ていない。

現代標準語での「な」は、

・軽く詠嘆し、念を押す気持ちをあらわす間投助詞として

 「こちらへ、いらっしゃいな」

 「まあ、あがんなさいな」

・活用語の連用形に接続して命令をあらわす終助詞として

 「早くしな」

 「こっちへ来な」

・活用語の終止形に接続して禁止をあらわす係助詞として

 「遊びに行くな」

 「本を読むな」

などが一般的と思われる。

また、古語においては、

活用語の未然形に接続して自分の意志をあらわす終助詞として

 「遊びに行かな」

 「本を読まな」

といった使い方も見られるが、これは関西地方の方言として、いまでもよく聞かれるようである。

(1)終助詞としての「な」の不思議

庄内弁の「な」は、こうした標準語的な使い方の他に、独特の使い方がある。

その一つが、終助詞としての「な」の使い方である。

例えば、庄内弁でよく使われる

 「どさいぐな」

 「東京さいぐな」

という会話。単純に標準語に言い換えれば

 「どこへ行くな」

 「東京へ行くな」

となり、「な」は禁止をあらわす係助詞として理解され、意味が通じないことになる。

庄内弁では、この場合の「な」は、質問や意志をあらわす終助詞として使われているのである。つまり

 「どこへ行くの?」

 「東京へ行くの」

という意味で、標準語の終助詞「の」と同義である。

それでは、庄内弁で禁止をあらわす場合はどう言うかというと、やはり

 「東京さいぐな」

である。文字にしてしまえばまるで同じなのだが、庄内の人は微妙なイントネーションで聞き分ける。

「行くのだ」という意志をあらわす場合は、平たん(→)に発音し、「行くな」という禁止をあらわす場合は、若干「な」が尻上がり(↑)となる。

 「東京さいぐな(→)」=「東京へ行くのだ」

 「東京さいぐな(↑)」=「東京へ行ってはいけない」

しかし、すべての場合にこのイントネーションの法則があてはまるかというと、そうともいえない。

 「読むな(↓)」=「読むのだ」、「読むな(→)」=「読んではいけない」

 「聞ぐな(↓)」=「聞くのだ」、「聞ぐな(→)」=「聞いてはいけない」

など、イントネーションは、「な」の前にくる動詞によって変わってくる。

同じ終助詞としての古語や関西弁の「な」との違いは、古語や関西弁が未然形に接続するのに対して、庄内弁は終止形に接続することである。

 関西弁:「行かな」「読まな」「聞かな」

 庄内弁:「行ぐな」「読むな」「聞ぐな」

さらに、断定の助動詞「だ」、終助詞「よ」をつけることによって、意味が強調される。

 「東京さいぐなだ(↓)」「東京さいぐな(だが省略されている)よ(↓)」=「絶対、東京へ行くのだ」

 「東京さいぐなよ(↑)」=「絶対、東京へ行ってはいけない」

 (禁止の場合は、「だ」は使わない)

さて、語源はというと定かではない。古語に「なる(なん)」という助動詞があるが、もしかするとその辺があやしいかも、と密かに思っている。

これが庄内弁特有のものか、他の地方でも使われているものなのかについては、今後の課題としたい。

(2)格助詞としての「な」の不思議

庄内弁の「な」は、所有をあらわす格助詞としても使われる。

「おれな」「わあな」「だれな」「先生な」などであるが、この場合の「な」は、標準語で言う「の」と同じで、「人(モノ)」と「モノ(人)」との所有関係をあらわしている。ただし、その所有される「モノ」は、何であるかは表現されない。話し合っている双方が、話の対象物(モノ)をお互いに理解している場合に、「モノ」の名前が省略された形で話される。

 庄内弁:「この本は、誰なだ」「おれな」

 標準語:「この本は、誰の(本)ですか?」「わたしの(本)です」

標準語でも「モノ」の名前は省略される場合があり、「の」=「な」と解釈されそうであるが、そうではない。

標準語では「わたしの」とも言うが、「わたしの本」とも言う。しかし、庄内弁では、「おれな」とは言っても、「おれな本」とは決して言わない。完全に「モノ」を省略する場合にのみ「な」が使われるのである。省略しない場合は標準語と同じで「の」を使用し、「おれの本」となる。

つまり、「な」には「の」という格助詞と所有物の名前(この例で言う本)が代名詞として含まれていることになり、「〜のモノ」ということができる。

後述するが、もっと考えれば、「な」とは古語の「何(な)」であり、「おれな」とは、「おれの何(な)」が音便化して「おれんな」になり「おれな」になったと考えるのが自然である。従って、使い方としては格助詞的であるが、正確には代名詞ということができるだろう。

黒川能

▲黒川能の狂言「蟹山伏」。両手の指をチョキにしているところなど、どことなくユーモラス。