私の庄内物語

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庄内風土記

「あらね」と「かだもぢ」

庄内の5月は田植えの季節で、連休の頃から20日前後までは、田植えに忙しい。今は機械でやってしまうので、それほど手もかからないようだが、昔は、一本一本手で植えていたので、それこそ猫の手も借りたいほど忙しかった。学校もこの時期、一週間ほど田植え休みというのがあって、小学生でも田植えの手伝いをさせられたし、田植えができない小さい子は、赤ん坊を背中に背負わされ、子守りをさせられた。

そうした中での楽しみは、午前と午後にある一服の時間、中休みだ。みんな一斉に田んぼから上がって、泥だらけの作業着のまま、農道に座り込みたばこを吸い、お茶を飲みながら雑談をする。その時に欠かせないのが、「あらね(あられ)」や「かだもぢ(固餅?)」だ。

たいがい、おばあちゃんなどが休みの時間に合わせてあられを煎り、かたもちを焼いて漬け物などと一緒に重箱に入れ、ヤカンに入れた熱いお茶も用意する。それを子供が田んぼまで運んでいく。一日2回の「一服」は家族団らんの一時なのだ。

「あらね」や「かだもぢ」は冬の間に作る。2月の終わりか3月の頃、何臼もの餅をつき、それに膨らし粉と豆などを入れ、さまざまな形に切って乾燥させる。寒い時期なのでカビが生えるようなこともない。それを保存して田植えの時期などに食べるのだ。味や色、形は家によって違い、よその家のあられをもらって食べたりするのが楽しみだった。

農業が機械化され、お菓子などもふんだんに手に入るようになった昭和30年代には、あられやかたもちは、ほとんどの家で、もう作らなくなったようだ。

●あらね(あられ)

記憶が曖昧なのだが、あられは大きく二つのタイプに分かれていたようだ。

一つは丸い(球体)タイプで、これは、餅をつく時に膨らし粉と青海苔や糠などを入れ、つき上がった餅を手早く金太郎飴のように棒状に丸める。それを縁側などで少し乾燥し、生乾きの状態の時に1cmくらいの大きさに切っていく。飴をつくる要領だ。

切ったものは、並べて乾燥させるのだが、私の家の場合は、昔、蚕を飼っていたので、その時に使っていた畳一枚ほどの大きさの竹で編んだ浅いカゴ(何という名前だったか忘れてしまったが)に新聞紙を敷いて、そこに並べて乾燥させていた。その数およそカゴ10枚(相当の量だ)ほどあったような気がする。

このタイプは、煎ってもあまり膨らまずに、どれも非常に固いのが特長だ。

もう一つは、細長い繭状の形をして、まん中にはちまきをしているタイプ。これは、餅の中には膨らし粉以外は何も入っていなかったと思う。まず餅を薄くのして、片面に食紅で色を付ける。その上に同じように薄くのしたもう一枚の餅を重ね、馴染ませるようにもう一度のしたあと、乾燥させ細い棒状に切り、さらにそれを細かく切って、カゴに並べて乾燥させる。(この辺も記憶が定かではない)

このタイプは、乾燥している時の大きさは7ミリ×7ミリ×12ミリ程度の直方体なのだが、煎ると蚕の繭よりちょっと大きい程度に膨らんで、まん中に食紅の赤いはちまきをしたような、ちょっとおしゃれな感じのあられになる。食べるとさくさくして今でいうスナック菓子を食べている食感だ。まず、一口目ははちまきのところまで食べて、二口目で残りを食べる、といった食べ方をしたのを覚えている。

あられは、田植え時とは限らず、一年中、おやつとして食べていたし、また、村の集会があるときなどは、お互いがあられを持ち寄って食べ比べなどをしていた。

●かだもぢ(固餅)

かたもちは、今どこでも売っている煎餅の形を蒲鉾状にして、素朴な味がするものと思っていい。作り方はあられとほぼ同じで、餅の中に大豆やごま、青のりなどを入れる。それを蒲鉾状にのして乾燥させ、5ミリ程度の厚さに切り、大根を干す時のように、10枚ほどを藁で編んで軒下などに吊るし、さらに乾燥させる。それを炭火で焼いて食べるのだ。

これも保存食として一年中あって、子供の頃は、腹が減ったというと「かだもぢでも焼いで、け(かたもちを焼いて食べなさい)」とよく言われたものだ。