home美しい庄内語>庄内語あれこれ|庄内は言葉の吹きだまり

庄内語とは

庄内は言葉の吹きだまり

 記録に残らない口承文化の方言は、外的要因で容易に変化していく。

 例えば昭和30年代後半、テレビの普及によって、庄内弁は大きく変化したし、酒田に関西の企業による工業団地ができた時には、酒田のスーパーマーケットは関西弁が飛び交っていたという話も聞いた。

 庄内弁が消えていくと嘆く年輩の方も多く、私もその一人なのだが、実は消えていくのではなく変わっていくのであり、庄内語の歴史は変化の歴史でもあったのである。

 庄内は地形的に閉ざされた地域で、中央との文化の交流も少なく、特有の言葉や文化がいつまでも残る条件は揃っていた。しかし、それなりに言葉は変わってきたと思われる。

 縄文時代の昔から、土着の人がいて、アイヌの人たちがいた。また、蘇我馬子の難を逃れ羽黒山を開いた蜂子皇子は、日本海を渡って多くの関西人を連れてきたであろうし、山間部には平家の落人も住み着いたと言われている。

 岩手の方言と共通点が多いと言われるのは、おそらく藤原氏の影響である。いまでも山間部や海岸沿い、最上川に沿った三川地方などで若干言葉が違うのだが、当時はもっと様々な言葉が飛び交っていたであろうと想像できる。

 そして、江戸時代になり、長野から酒井の殿様がやってきた。当時の中央の武家言葉が突然入ってきたのである。

 そこでは関西系工業団地が進出してきたのとは比べ物にならないほどの言葉の変化があったであろう。その後300年近く酒井家の統治の下、庄内の交流の窓口は米の積み出し港である酒田に絞られ、地形と相まって袋小路のような閉ざされたエリアで、大きな変化もなく、今のいわゆる庄内弁が形作られたと思われる。

 庄内弁は、多くの人が想像する東北弁(ずーずー弁といったような)とは違い、どちらかと言えば関西の言葉に近い。言葉の響きの柔らかさやイントネーションは、岩手、宮城、福島など大平洋側の言葉、あるいは同じ山形県内でも米沢や山形とは大きく異なる。

 例えば庄内弁を代表する「の」や、映画でも使われた「がんす」、「はん」、「さげ(さかい)」といった言葉は、庄内特有の言葉ではなく、関西系の言葉である。

 東北近県の言葉を飛び越えて、関西と点で繋がるのは、これは陸路を通ってゆっくり変化しながら伝わってきたのではなく、海路突然上陸したことを意味する。

 酒田港から庄内米を積み込み、帰りに京都や九州、中国、大阪の文化を運んできた北前船の影響が大きかった。物だけでなく、人と一緒に言葉も運んできた。船に乗って関西の商人がやってきたし、そのまま住み着き商売を始める人もいた。おそらく中国や九州、加賀などの職人も来た。自ずと庄内の武士や町人に関西弁、中国弁、九州弁などが広がっていく。太平洋側の陸路をゆっくり上がってきた関東系の言葉は朝日連峰や月山に遮られ、入り込む余地がなかったということであろう。

 庄内弁に「ね」あるいは「ねぇ」と言う言葉がある。「ない(無い)」の変化したものだが、「ごめんください」という挨拶にも使われる。例えば「ごめんください、お父さんはいらっしゃいますか?」と言う場合、

「ねぇ、だだちゃいだが」というように使う。これは江戸時代、庄内藩の武士が他家を訪問す際に、玄関先で「他意はない」と言う意味で「ない!」と言っていたことから、一般に広まって「ね」になったのだと言われている。武士の言葉が庄内弁に同化した例である。また逆に、もともと関西系の商人が使っていた誰々「はん(さん)」と言う言葉が、自然と武士の間でも使われるようになったと聞いている。

 庄内弁は、江戸時代以前の土着の言葉、アイヌの言葉、京都から落ちてきた平家の公家の言葉、そして江戸時代、酒井家が運んできた武士の言葉、北前船でやってきた関西の商人や職人の言葉、あるいは酒田を中心として栄えた花街の言葉などが、出口のない袋小路の中で、変化の少なかった江戸時代の300年の間に混じりあい、醸成し、ろ過されて特有の言葉になった。いわば全国の言葉の吹きだまりの中から生まれてきたのが庄内弁なのではないだろうか。

農家のトイレの窓

▲農家のトイレ。入口のすぐそば、大体、馬小屋の横あたりにあった。扉代わりの縄のれんと丸窓がどことなくおしゃれ。